エマニュエル・ウンガロ(Emanuel Ungaro)

エマニュエルウンガロ Emanuel Ungaro


エマニュエル・ウンガロ(Emanuel Ungaro)は1933年
フランス南部のブーシュ=デュ・ローヌ県
エクス・アン・プロヴァンスに生まれる。
両親はイタリア人でイタリアのムッソリーニ政権を
避けてフランスに渡った。父はフランスで小さな紳士服店を営んでいた。
ウンガガロは幼くして、スーツの仕立てを習得していたという。


1957年、23歳でパリのモンパルナスに渡り
翌年の58年からバレンシアガのアシスタントとして働きはじめる。
これはクレージュの推薦によるものだった。
バレンシアガ(BALENCIAGA)との出会いはまさに衝撃的で
英知、厳格さ、強さ、偉大さとの出会い」だったと言う。


1965年、独立して、自身の名を冠したブランド
「エマニュエル・ウンガロ」をスタート。
当時の恋人でファブリックアーティストの
ソニア・ナップとともに会社を設立する。


90年、50歳のとき、ラウラ・ファファーニと結婚。
彼女の父はイタリアの国営テレビ局の会長。
96年、サルヴァトーレ・フェラガモ社にブランドを売却する。
これはフェラガモの強みとする、国際的な販売網とマーケティング
ウンガロの美しい衣装を融合させたもので、友好的な買収であった。


2005-2006 A/W より、三喜商事株式会社
(SANKI-SHOJI CO., LTD.)がレディースウェアの
国内総輸入販売元となる。
輸入販売をこれまで手掛けていたウンガロ・ジャパンは
広報宣伝活動を担当。


2002S/Sからウンガロのデザインチームで活躍していた
ジャンバティスタ・ヴァリがデザイナーに就任。
2005-2006 A/W より、ジャンバティスタ・ヴァリ
(Giambattista VALLI)の後を引き継ぎ
ヴァンサン・ダレ(Vincent DARRE)が
アーティスティック・ディレクターを担当。
ヴァンサン・ダレは1962年、フランスに生まれる。
スタジオ・ベルソーを卒業後、プラダPRADA
フェンディ(FENDI)等を経て
2001年からモスキーノMOSCHINO)のデザインを担当。


2005年12月、ピーター・ハイド・デュンダス
(Peter Hyde Dundas)がアーティスティック・ディレクターに就任。
2007-2008 A/W を最後に、ピーター・ハイド・デュンダスが
アーティスティック・ディレクターを解雇される。


2007-2008 A/W より、エリット株式会社が
「ユーバイウンガロ(U by Ungaro)」を展開。
2008 S/S は、デザインチームがデザインを担当。
2008 S/S より、フランク・ボクレがメンズウェアライン
のがアーティスティック・ディレクターに就任。
フランク・ボクレはフランチェスコ・スマルトのデザイナーを経た。


2008-2009 A/W より、エステバン・コルタザル
(Esteban CORTAZAR)がクリエイティヴ・ディレクターに就任。
エステバン・コルタザルはコロンビアのボゴタに生まれる。
ニューヨークを拠点に活動し
2003年にシグネチャブランドを発表。


2009 S/S より、伊藤忠商事株式会社(ITOCHU Corporation)と
ライセンス契約を締結し
日本市場でのブラックフォーマルラインである
「ウンガロ・ソワ(UNGARO SOIE)」を展開。
ブランドターゲットは30代〜40代を中心とした幅広い年齢層。


10SS COLLECTION
リンジーローハン効果でパリコレの話題独占
エステバン・コルタザルに代わって
デザイナーに起用されたスペイン出身のエストレッラ・アーチス。
さらに、アーティスティック・アドバイザーに
女優のリンジー・ローハンを迎えて話題を集めた
新生「エマニュエル ウンガロ」。
このメゾンのDNAであるハンドプリーツ
そしてメゾンを象徴するピンクを巧みに使いながら
若々しくてフレッシュな雰囲気にまとめていた。
 
ラペルの形がハートになっているジャケットや
カットされたハートの下からスパンコールがのぞく
レザーのジャケット、ハートプリントのドレープワンピースなど
すべてに80s的なエッセンスを盛り込んだルックの数々だった。
フィナーレで、アーチスと共に泣きながら登場した
リンジー・ローハンの姿も話題に。