バレンシアガ(BALENCIAGA)

1915年、クリストバル・バレンシアガがテーラリングのメゾンを開設。


クリストバル・バレンシアガ(Cristobal BALENCIAGA)。
1895年スペインのサンセバスチャン(San Sebastian)で
バスク系のスペイン人の家系に生まれる。


母親から仕立てとドレスメイクを習い、独学で裁断と縫製を学ぶ。
1908年頃カサ・トレス公爵夫人のパリのスーツをリメイクした服を作る。
才能を認められ、マドリードの仕立て屋で修業。
1915年夫人の支援を得て、テーラリングのビジネスを開始する。
1919年パリ・オートクチュール・コレクションに初参加。
1930年頃には、既にスペインファッション界をリードする存在になる。
36年スペインに内乱があり、パリへ移る。
36年秋パリコレクションに参加。


女性服の革命者ポール・ポワレに師事し
「シンプル&エレガンスの父」エドワード・モリヌーの影響を受けた
クリストバル・バレンシアガは、完璧な縫製技術によるシンプル且つ
芸術性の高いスタイルで「クチュールの建築家」とも称された。


ココ・シャネル(COCO・CHANEL)をして
「本当にクチュリエと言えるのは、バレンシアガだけね」と語っている。


シンプルで完璧なシルエットがパリファッションの象徴として
世界的な名声を得る。
38年に後のクリスチャン・ディオールの「ニュールック」
の前身ともいえるスタイル、ウエストシェイプされたワイドスカートの
スーツを発表。
39年にウール生地で「黒いドレス」のシリーズを発表。
45年四角い肩に狭めたウエストラインの服を発表。
51年バレルラインのスーツを発表。
46年香水のラインをスタートし「e Dix(ル ディズ)」を発表。
50年代には他にウエストラインを持たない「バレル・ルック」や
シンプリシティを追求した「サック・ドレス」を発表。


55年チュニックラインと言われるスタイルは
クリスチャン・ディオールの「Aライン」と共に話題を独占。
上着はロングトルソーで、ややローウエストでウエストは絞らず
肩から背中をゆったりと扱い、全体がストレートなシルエットの
「チュニック」はその後のファッション業界のトレンドに大きな流れを作る。


58年レジョン・ドヌ−ル勲章を受賞。
67年、スクエアショルダーのスーツを発表。
1968年バレンシアガは「プレタポルテを始めるには年を取りすぎている」
との名言を残し、オートクチュール事業を閉鎖。
引退してスペインに戻った。
72年スペインのヴァレンシアにて死亡。
死後、「バレンシアガ」はジャック・ボガート(Jacques Bogart)
によって所有される。
86年までは、香水ブランドとして継続された。
しかし、「バレンシアガ」のプレタポルテコレクションは
1987年に再スタート。
2001年ジャック・ボガートの手を離れ、グッチのグループが買収
株式資本の91%を所有する。


1993S/Sから1997/Wまでアントワープ王立芸術アカデミー出身の
ジョセフュス・メルキオール・ティミスターが
プレタポルテのデザインを担当。
1998S/Sから、ニコラ・ゲスキエールがチーフデザイナーを務める。
ニコラ・ゲスキエールのデビューコレクションの98S/Sは
衝撃的な印象を残し、新生バレンシアガをアピールする。
ゲスキエールはバレンシアガの伝統的なスタイルを継承し
ウェアだけではなく、バッグ、シューズでも好評を得ている。
ローマの剣闘士たちが履いていた靴のようなデザインの
グラディエーターシューズを発表して話題を呼んだ。


2005年モンクレールとコラボレーションでアシンメトリー
ジッパーやミリタリー系の紋章が施されたダウンジャケットなどを発表。
2008年コティとフレグランスを製造することを発表。
フレグランスをリニューアルする予定。


ディオールをして
「すべてのデザイナーの師」を言わしめたクチュリエです。
ディオールと同時代に活躍しましたが、デザインは別路線を行きました。
ディオールがシルエットを強調するデザインを毎年形を変えて
出していったのに対して、バレンシアガは密着しないシンプルな
デザインで、ゆったりとしたシルエットを追求しました。
なんといってもチュニック・スタイルが有名です。


常に時代の先を読み、立体裁断の技術、身体に密着しない
シンプルなデザインは、オートクチュールから大量生産の
既製服業界まで各方面に大きな影響を与えました。


メゾンからはジバンシークレージュ、エマニュエル・ウンガロを輩出
「モードの巨匠」と言われました。


今期のBALENCIAGAのコレクションの画像を幾つか載せます。